融通が利かない くそまじめな自分とはさよなら

こんにちは!ライフスタイルコンサルタントの目黒真由子です。

 

さて、今回も私のネタです。

 

今でこそ、こんな風にブログを書いたりしていますが、

本当にくそまじめだったので、

自由に価値観とか考えを出せる人でもなく、

出しちゃったら最後、人の意見が気になって仕方ない。

そんな不安症なワタシでした。

 

くそ真面目だと思っていなかった 

そもそも自分がくそまじめだとは全然思っていなかった。

むしろ思いたくもなかった「くそまじめ」。

「まじめだね」とは言われたことはあったけど、

自分の中で嬉しい言葉ではなかったので、

そのまま聞き流してました。

どこが真面目なのか?なんて、怖くて聞くこともできない人でした。

 

でも、自分の中では真面目な人はこんな人があった。

勉強して、仕事もしっかりやるけど、

遊びや趣味はあまりないような、会話も長続きしないような人が

真面目な人だなあと思っていました。 

そこには該当しないから、自分は違う!って思っていたけど、

みんなが思う「真面目」は違うってことにも

それほど気づいていなかった。

 

受け入れることから始まる

真面目な自分をどこで見るかだけれど、

真面目な部分とそうでない部分ももっている。

真面目に見られたくないから、そういう風に見せないパターンもある。

私の場合は、真面目に見られたくないから、

真面目でない部分を意識してました。

そうすると、真面目に見られたくないと思えば思うほど、

真面目でない自分を見せようと意識する。

 

結局、ずっとそこに掴まれているのでした。

 

そんな自分に気づいて受け入れた時に

本当の自由が見えてきたのです。

 

笑い飛ばせるようになる

周りに真面目にみられたくない、そういう自分は面白くないと

思っていたからこそ、

そこが気になるし、なんとかしようとしていた。

 

そういうことをずっと気にして生きてきた

自分の背景を理解したら、

そこまでして頑張ってきた自分を可愛らしくも思えたし、

自由にもなれるんだよと思えた。

 

なんだかそうやってきた自分を

だんだん笑えるようになってきた。

 

それをずっとしたいわけでもない。

人に認めてほしい自分になりたいわけでもない。

 

そうしたら、真面目な人も許せたし、

面白い人たち、いわゆる不真面目そうな人たちの

本質も見れるようになってきた。

 

真面目も真面目じゃないも思い通り。

真面目のイメージもそれぞれ違って当たり前。

いつもそこに掴まれず、真面目を使う側になればいいのだと気づいたのです。

 

nTechは、人間の道具なので使ってなんぼ。

武術やスポーツなどもそうですが、

初心者の時は、意識しなければできないし、

形はできても不安定でおぼつかない。

それが、何年もトレーニングを重ねると、

どんどん意識しなくても形になるし、身についていく。

自分のものになって、自分と一体化していくんですよね。

nTechも、まさにそう。

使わなければ意味がない。ただの知識になってしまう。

 

それに、動きなのでどちらかに固定されない。

わかって、選択できるんですよね。

どっちが正しいなんて、本当はわからない。

その正しいも正しくもないところから、スタートできるって

すごくラクなんですよね。

ぜひ、みなさんにも体感してもらいたいです。