不信と信頼

今の時代、日本は信頼できる国だとか社会だとか、
言い切れる人は少ないのかもしれないですね。

だけどまだ世界的にみたら、経済も社会もなんとか
維持されてるようにもみえたりする。
お年寄りに言わせると、そうではないんだろうけど。

信頼するかしないかも、人によって考え方も違うから、
いろんな考え方があっていいのではないかと思う人もいる。

よい意味で分けていく。
自分と相手は違う。育った環境も考え方も違うのは当たり前。
それが人間なのだから。

考えてもわからない。人は違って当たり前。

日本人の場合、相手によって本音を言うか言わないか分けたり
本音を基本的に言わないって決めていたり。

5感覚で知れる範囲、相手が話した内容・声のトーン・表情とか
自分のフィルターをかけて出会う相手。

不信はないって言い切れる人もいるはず。
無意識で見れてない部分は、自分にはないって思うのかも。

不信し続ける人。
信頼しようと思い続ける人。

この二つの格差をどう埋めていくのだろう。

みんな違って当たり前の格差をどう埋めていくのだろう。

違うままずっと平行線?

対面してるし、話せるし、出会ってるよね?って
不思議に思う人もいる。
表面的に観たらそうだと思う。

カタチだけ出会っても、出会っていない。
話も聞けていない。
過去のイメージにがっちりつかまれてる。
分離して分けて・・・

不信も信頼も無いところから生まれている。

不信も信頼のイメージも皆違うはずだし。でも確認もしないから
同じことをイメージしていると思ってる。
不信も信頼も人間が作ったイメージだし、言葉でもある。

その準備された言葉を覚えて、話してる。
自分の感情も考えも自分がこんな自分って思ってる自分も
全部作ってきてる。
無いところから、有るをつくってきている。

無いまで戻れば、自由自在。

こんな自分だけでとどまらない。

因果にとらわれない。親にも周囲にも社会にもお金にもとらわれない。

自由なイメージ。

人間の可能性そのもの。

そんな人間の可能性を無限に開花させたい。
当たり前でないことを可能にさせる時代は必ず来る。

こんなことを発信できるようになったこと。
それが人間の可能性。