他力本願は 実はチームプレイ①

 こんにちは!認識コンサルタントの、目黒真由子です。

 

今回は、他力本願についてのお話です。

 

他力本願の意味って

他力本願を、本来の意味とは違った意味で使うことが多いということにまず気がつきますね。

 

以下wikiより抜粋

  1. 仏教用語阿弥陀仏本願に頼って成仏すること [1][2][3]浄土教阿弥陀信仰にて使用される用語。#用法1を参照。
  2. 人まかせ、他人依存、成り行き任せの意[1][2]#用法2を参照。

 

2番の意味を確かによく使う。

現代人が、宗教的な意味合いで言葉を使うこと自体、本当に少ない。

 

 

他力本願はワタシを守ってくれた

私って、実は人まかせな人生を生きてました。

でも、気づいてなかった。

 

自分の選択に自信もなく、

何を基準に物事を決めたらいいのかわからない。

子どもの時に、何かを主張しても

両親は話を聞いてもくれない。

認めてもらえた試しもない。

 

じゃ、言われたこととか、世の中のことに合わせれば、

少なくとも、周りに否定されることもないだろう。

そう考えた私は、周りに合わせることをマルとして

人生を生きるようになった。

しかも、無意識でやるようになっているので

それに気づかない。

 

あの人が言うから、こうする。

世間ではこうしてるからこうするのが当たり前。

だから、なんでそれをやるとか

考えても答えがでないし、

子どもの頃から知りたかった答えも、本質的すぎて

答えなんて見つからないだろうと諦めていた。

 

つまり、自分がなかった。

 

あると、他人とぶつかるし、否定されたり衝突する。

問い詰められても、意見も言えない。

だって、自分がわからないし。

正しい答えなんてわからない。

学校で学ぶことも、質問に対する正しい答えは何か。

 

わからないことだらけの人たちであり、世の中。

 

人まかせの他力本願は、

何をしたいのかもわからなくなっていた私には、

唯一の頼みの綱。

私が何かもわからない。

だから大丈夫そうな人たちについていった。

 

自分を知れば他力本願もチームプレイ

自分がわからなかった頃は、

自分の活かし方もわからないし、

自分ができない人だって、素直に認めることも怖い。

自分が思う「できない人」は、「必要ない人」っていう思い込みが、

何かやらないと!と、私を突き動かしていた。

 

自分はこれができて、これはできない(不得意)って

素直に認めることは意外に難しい。

個人主義の時代だからこそ、

能力というかスペックというか、評価制度が当たり前だし。

ここの部分が低いから、もっと努力を要求される。

世の中の平均以上でないとダメだという、見えない評価もある。

人の目を気にする。

大人のフリが上手くなる。

 

私はここが得意で、実はここが不得意でした〜!

って素直に認め合って、その中で

例えば仕事のプロジェクトのゴールに向かって

互いにフォローし合えたり、認めあえたりすれば、

ジャッジメントが起きないだろうし、

違いを認め合うからこそ、個性を活かしあえる。

 

 

できないことがあって当たり前。

不完全が当たり前。

だから、チームプレイが必要。

 

もちろん育てる観点も必要だし、

個々が目指す自分像を共有して、

サポートする姿勢も必要だと思う。

 

人は、本当は無限大進化し続けられる存在。

そして、自分にも他人にも固定されるのではなく

自由に変化し続けるもの。

 

他力本願の意味は、見えないモノの力も借りるという

ある意味仏教的な意味合いに近い部分も

使えるかどうか。

 

そのためには、そのイメージがないと使えない。

他力本願は、2段階で使える。

 

次に続きます!